――飛んだステレオスピーカー
『小学生の時、母親のクラシックギターを弾いてみた事がギターとの初めての出会いでした。その後中学生になると自分のギターが欲しくなって、近所の質屋さんで1,500円のフォークギターを買ってきて雑誌の付録の歌本をめくりながら弾いていたんです。
本当はエレキギターが欲しかったんですけど自分のお小遣いでは買えないので、そのフォークギターにグヤトーンのピックアップをつけて、家にあったステレオのマイク端子につないで鳴らしてたんですよ。そしたらこれがいい感じで歪んでくれて(笑)
調子に乗って鳴らしていたら、ある日突然スピーカーが飛んじゃいまして。。!
まぁ、この時は父親にこっぴどく怒られましたね(笑) 』
そう話すのは、東京、世田谷代田駅のほど近く、落ち着いた住宅街の入口に中古ギターショップ「グラスホッパーギターズ」を構える小山氏。
70年代当時、ギター好き中学生の間では「あるある」ともいえる懐かしい事件。小山氏は東京、中野に生まれ、当時流行っていた「グランド・ファンク・レイルロード」などのロックミュージックが大好きな「都会っ子」であったという。
――「裏方」という「仕事」
『その後小遣いを貯めて買った5万円の「フェルナンデスSGジュニア」を弾いていたら、それを聞きつけた学校の(悪い)先輩に「キャロル」のコピーバンドに誘われて「この印のついた曲を覚えてこい!」なんていわれて必死に練習したのがデビュー戦でしたね(笑)
でも私は演奏をするよりもどちらかというと「裏方」というか、ステージを支える側の役処が性に合っていて、PAなどを好んでやっていたんです。
15歳の頃にOZのコピーバンドをやっていた先輩の影響もあって、連れて行ってもらったのが「カルメンマキ&オズ」の'77年解散コンサート。これには刺激を受けて、レコードを買い漁りましたね。
高校生になると神谷町に学校があったので、通学定期で新宿、原宿、渋谷に行き放題なんです。まあこの時は天国かと思いましたね(笑) 学校帰りに友達とライブハウスに入りびたりで。。(笑)
渋谷に「屋根裏」というライブハウスがあって、当時は昼の部と夜の部があったんですが、それが入れ替わる1時間ぐらいの間に喫茶店営業をしていたんです。
コーヒー200円でお店で粘っていると好きなバンドの人達の姿も見られるんですが、忌野清志郎さんがそばでコーヒーを飲んでいて「お、今日も来てたか!」なんて声をかけてくれたりして、「今度春日博文さんが入るからライブに来い」なんて誘われたりして。それでもあの頃はまだ30人ぐらいしか入ってなかったかなぁ。そんな時代でしたね。』
そう話す小山氏は、その後もライブハウスに入り浸るうちにミュージシャンの「ボーヤ」や「ローディー」といわれる人たちの手伝いをするようになり、20歳の時に原宿にあるライブハウス「クロコダイル」の店長に誘われて、PAエンジニアの道を歩むことになる。
――石やんのギター
『そんな私にとって一番大きかったのは「石やん」こと「石田長生」氏のマネージャーを務めたことでしょうか。中学時代に「SOOO BAAD REVUE」を見て衝撃を受けた、まさにその人でした。
2003年に代々木にあるスタジオの運営をそこのオーナーから任されることになったんですが、店長だった人が学生時代から石田さんのローディーをやっていて、今後はマネージャーも努めたいということでそのまま仕事を続けてもらうことになったんです。ところがその後、彼が家の事情で辞めたため、私が引き継ぐ形になりまして。。
石田さんが亡くなる2015年までの12年間、ずっとそばで彼の活動を手伝わせてもらいました。初めは近寄りがたいほど大きな存在でしたが、石田さんの人柄がとにかく好きだったんです。バイタリティーがあってストレートで、常に全力でしたね。とにかく歌を大切にしていて、ミュージシャンの中でもとても信頼が厚かったし、今も彼と一緒に仕事ができた事を心から嬉しく思っています。』
そんな小山氏の元に1本のギターがある。「ヤマハLL36」。あの石やんが弾き込んだギターだ。力強く歌う彼はピックを持った手でパーカッションのようにギターをタッピングし、やがてサウンドホールはピックで削られて行った。
『ヤマハさんがイベント用のギターを提供してくれることになって、一緒に見に行ったんです。
豪華なインレイに彩られた当時のフラッグシップギターが何本か並んでいて。。
いろいろ試奏をしてみた石田さんでしたが、どれも新しすぎたせいか少しばかりしっくりこないようでした。
するとたまたまその部屋の壁に掛けられていた会社備品?であったこのギターを手に取って弾き始め、しばらく弾いたあとに「コレ!」と(笑)
以来、このLLは石田さんと共に沢山のステージを盛り上げてくれました。』
元々エレキギターを弾いていた石田氏であったが、Char氏と組んだ「BAHO」をきっかけにOvationやTACOMA、Taylorといったアコギも持って歌うようになった。そんな中、「ヤマハは"容赦なく引き倒せる"ギターだ」と言い、好んで使っていたという。Char氏に「このギターには石やんの怨念が詰まっている。」と言わしめたほどの一本だ。
――サインで埋まった白いギター
『2003年に任されることになった前出のスタジオにはレコーディング設備もあって、上の階にもう使わなくなった編集専用の部屋があったんです。
当時、古いギターを仕入れては修理することを趣味としていた私の手元には、そんな中古ギターが何本もあったもので、試しにその部屋に並べてみたら、スタジオを利用するお客さんやミュージシャンが買ってくれて。。それが「グラスホッパーギターズ」の前身なんです。』
そう話す小山氏は、特にヒストリカルなギターを集めたりするタイプの人間ではないという。しかし、そんな彼にも「宝物」といえるギターが1本、いや、現在では2本あるそうで、脇に置かれた、何やら沢山のサインで埋まった2本の白いギターを見せてくれた。
『たまたまスタジオでお店を始める時に、知り合いの古道具屋さんから何本か仕入れたギターがありましてね、その中にあった1本が始まりなんです。
何となく「直して売る」ような感じでもなくて。眺める内に、「白い」からこれをサイン帖に見立ててお店に遊びに来てくれたミュージシャン達に一筆もらったら面白いんじゃないかな。。と、考えまして(笑)』
以来、このギターはお店に遊びに来てくれたミュージシャン達のサインで埋まることになった。見せていただいたギターはボディーからヘッドに至るまで、ミュージシャンのサインで埋めつくされている。
『1970年代の鈴木バイオリン製ガットギターなんですが、一番初めにサインをしてくれたのは今は亡き小坂忠さん。サウンドホールの上、指板の付け根にそっとサインをしてくれました。
位置や字の大きさと言い、忠さんの性格が出ていて。。改めて「こんなギターにサインをもらうと、その人の人柄のようなものも出るんだなぁ」、と。
以来、石田さんはもちろんの事、アコースティックデュオ「BAHO」の相方でもあったCharさんなど、沢山のミュージシャン達にサインをもらいました。特に今はもう声を聴く事の出来ないミュージシャンもいて、そうした面々の想い出を振り返る意味でも私にとってこれらはとても大切なギターなんです。』
※それぞれのサインの紹介については小山氏が以前につけていたブログに記されている。
http://blog.livedoor.jp/swm_guitar/archives/cat_50042320.html
――ショーウインドウの中心に
現在、このサインで埋まった2本の「白いギター」はグラスホッパー・ギターズのショーウインドウの中心に掛けられている。
スタジオにあったギターショップはその後建物が解体されることになり、2013年に現在の世田谷代田に移ってきた。店内には70年代~80年代製の国産アコギを中心に沢山のギターが並ぶ。
『自分にとって何もかもが新鮮で、刺激を受けたこの時代の国産ギターを扱っていたいと思うんです。特に普及品というんでしょうか、特別派手な装飾があるわけでも、高級素材を奢ったものでもなく、ごく一般的なギター。
でもこの辺のギターって、当時は高級器と同じ熱量で作っていたと思うんですね。そのあたりが「日本の職人」っぽくて、惹かれるんです。なので、私はこれからもこのクラスのギターを「ちゃんとした」状態に仕上げてやって、お客様に届けて行きたいと思うんです。』
そう話す小山氏、2019年に石やんのトリビュートアルバム"SONGS OF Ishiyan"をプロデュースした。Char氏をはじめ、彼を敬愛し、共に歩んできたアーティスト達が、石やんの約50年にわたるキャリアに残した名曲の数々をレコーディングした2枚組。製作に当たって小山氏はアルバムに参加してくれたミュージシャン1人ひとりに協力を求めて回ったのだそう。
CDには石田長生氏への心からのオマージュと沢山の感謝が込められた。
聴いてみたいと思われた方は是非キーワード「SONGS OF Ishiyan」でweb検索をしてみて欲しい。
発売元:EDOYA https://www.edoya.tv/641.html
(掲載日:2025年5月8日)