――高校の頃、ある友人との出会いからギターにのめり込み
「ロック黄金時代」といわれた1960年代後半、山梨県都留市の中学校に通っていた寺田氏は懸賞で当たったステレオで毎日のように海外のロックミュージックのレコードを聴くうちに、自分でもギターを弾いてみたいと思うようになったのだとか。
やがて甲府の高校に通うようになり、ここで仲良くなった隣のクラスの友達が知る人ぞ知る「TOO MACH」という日本のロックバンドのギタリスト 堀内良二氏の弟で、この出会いが後のギターとの関係を決定的なものにしたと語る。
――ヤマハのアコギとグレコのエレキを弾きまくった
『この頃に小遣いを貯めて買ったYAMAHAのF-180とGreco EGが自分にとっての入門ギターでした。当時ピンクフロイドなどのロックミュージックの影響を受け、独学ながら来る日も来る日もギターを弾きまくっていました(笑)。とにかく弾いている時間が楽しくて、友人と組んだバンドでステージに出るようになっていったのもこの頃で、この2本はそんな私の基礎を築いてくれたギターといえます。』
――一生モノのES-335
『実は18歳の頃に当時の電電公社(現NTT)に就職したこともあるんですが、一緒に音楽をやっていた周りの仲間たちが音楽から身を引いて行くのを見ながら、自分はやはり好きな音楽を生業にしたいと思い、1年で会社を辞めて'70年に上京したんです。
間もなくギタリストとして有名アーティストのバックバンドやソロギタリストとしての活動が始まるんですが、ちょうど19歳の時に渋谷の楽器店で私にとってまさに「一生もの」となる1970年製のGibson ES-335 Cherryと出合いました。
店頭で見た瞬間、一目ぼれのような感じで(笑)。
以降、335は数多くのアーティストとのTV番組でのセッションなど、私のギタリストとしての活動の全てを支えてくれました。
もちろん現在も現役で、1996年にブルースハープの妹尾隆一郎氏と結成した「SENO-TERA」のライヴやアルバム、1998年にプロデュースしたヴィンテージギターアルバム(森園勝敏氏、和田アキラ氏、鈴木茂氏等)などでも艶のあるサウンドを聴かせてくれています。

ペグやフレットなどの消耗品以外は、ボディーの塗装も含めて今もオリジナルのまま。この335は今では私のトレードマークのようになっていて、ブルース、ロックはもちろんの事、ジャンルを選ばないサウンド、コントローラブルで取り回のしやすさなど、私にとっては何ものにも代えがたい最高のギターです。今や身体の一部といっても良いかもしれません。』
――かけがえのない仲間と共に
70年代の終わり、25歳の時に寺田氏は荻窪の北口に3つの部屋をもつスタジオを開く。その後周りのプロミュージシャンや音楽仲間が録音やライヴを行い、楽器のメンテや売り買いまでの全てができる環境を作ろうと考え、現在のライヴハウス「Terra」の前身となる「Watts」や、ギターショップ「ギターズマーケット」をOPEN。
上京以来、出会ったミュージシャン仲間とは現在も変わらず交流をもっているが、この2つの店は彼らとの実りある時間を共に過ごすための大切なスペースとなったと語る。
寺田氏がギターを語る上で外せないギタリスト 堀内良二氏。彼が活躍した「TOO MACH」というバンドは当時、富士の裾野で日本版「ウッドストック」を実現しようと計画されていた「フジオデッセイ」にジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、ドアーズなど、世界的なロックミュージシャンと共に出演する予定だったが、当時の保守的な日本の社会的背景からこの計画は中止となってしまう。寺田氏がギター1本で上京した頃の日本はまだロックミュージックに対しての理解も低く、海外に渡った堀内氏はその後も国内で音楽を生業として生きて行こうと決めた寺田氏を常に熱く応援し、支えてくれたのだという。
寺田氏の傍らに佇むCherry RedのES-335には、そんなかけがえのない先輩や仲間と過ごした50年近くの年月がしっかりと刻み込まれている。
(掲載日:2022年9月22日)